市指定-工芸

ページID : 1087

更新日:2023年03月01日

刀銘 了戒(りょうかい)重能(しげよし)

左側に3つの穴がある刃の下の方、右側に刃の上の方が映る白黒写真
  • 時代 室町時代長禄元年(1457年)
  • 長さ 2尺3寸2分(70.3センチメートル)
  • 反り 8分(2.4センチメートル)
  • 目くぎ孔 8箇

中切先で中反り、庵棟(いおりむね)、鎬造(しのぎづくり)、表裏に棒樋(ぼうひ)です。鍛肌(きたえはだ)は小板目が地沸(じにえ)のついた美しい地鉄です。刃文は小沸の直刃(すぐは)に小乱(こみだ)れまじりの山城了戒風の刃を焼いています。

重能(しげよし)は長禄年間、豊前の人、筑紫了戒の門です。筑紫了戒は、山城了の門人能定を始祖とする一派で、室町期に豊前、豊後両国にわたって繁栄しました。

昭和49年12月4日指定 伊豆市熊坂:個人所有

刀銘 表 水心子正秀 裏 文化十年二月應良忠需造之

左から2枚が刀の銘で右側に刀の先がうつっている白黒写真
  • 時代 江戸時代
  • 長さ 2尺3寸(69.8センチメートル)
  • 反り 5分(1.5センチメートル)
  • 目くぎ孔 1箇

中切先で腰反り庵棟(いおりむね)、鎬造(しのぎづく)り、表裏に棒樋(ぼうひ)です。

鍛肌(きたえはだ)は小板目がつみ、無地鉄風です。刃文は匂出来の小互の目乱れ、帽子は小丸に返ります。

正秀は幕末の刀工で、羽州(山形県)の出身です。後に江戸に出て、水心子と号しました。正秀は「刀剣武用論」などを著わし、晩年に復古刀を提唱しました。一門には大慶直胤など多くの刀工がいます。

昭和54年1月19日指定 伊豆市瓜生野:個人所有

刀銘 廣次

刀銘のデッサン

時代 室町時代 永正頃(1504年~1520年)
品質形状 鉄、反りある日本刀、刃文五の目六乱れ、長さ66.5センチメートル(2尺1寸9分)
作者 相模国住人廣次
銘文 押型2通別添

昭和54年1月19日指定 伊豆市修善寺:個人所有

来宮神社の山車

龍などの透かし彫りが施された山車の写真

来宮神社所蔵の山車は、明治11年(1878)の拝殿建立を祝って奉納されました。山車は全体が、精巧な透かし彫りの二階組立式にできています。
古老の伝承によれば、造作は江戸で名高い彫工の後藤芳治良重利によるといわれ、三島大社拝殿の彫刻もてがけています。
山車は、竜をかたどった台車の上に、それぞれの彫りものを組立てていきます。四方の木鼻に使われている獅子の彫刻は有名で、なかでも「かご玉」をもてあそぶ獅子は、芳治良の傑作の一つです。
この山車は造りが精巧で、道路を引き回すといたむおそれがありますので、今では飾り山車として大切に保存し、別に造ってある山車を引き回し用として祭典時に使っています。

昭和63年4月11日指定 伊豆市八幡

永正の鰐口

中央に花のような模様、ふちに漢字が彫られた鰐口の写真

直径22センチメートル、青銅製。鰐口(わにぐち=金鼓)は、神社仏閣の堂前に布を編んだ綱でつるし、参詣者が綱を振り動かして打ち鳴らす金属製の具です。
側面に「伊豆国三嶋宿西分次郎三郎永正四年(1507)十一月廿十四日願主」の銘が刻まれています。市内で確認される最古の鰐口で、『増訂豆州志稿』に記載のある善名寺の旧蔵品と考えられます。
聖神社の永正九年(1512)の棟礼や軽野神社の天文二十一年(1552)の棟礼、柿木魂神社の永禄三年(1560)の棟礼等と重ねますと、16世紀頃の天城地区の様子が、おぼろげながらも浮かんでくるように思われます。

平成元年2月27日指定 伊豆市吉奈 善名寺所有

法泉寺の鉦(しょう)

ふちに漢字が彫られた青銅製の鉦の写真

上部直径20センチメートル、下部直径23センチメートルの青銅製で「ふせがね」「たたきがね」とも言われ、撞木でたたき鳴らす仏具です。地域の人々によって長いこと受け継がれ「お念仏」の際に、講の世話人が中央でたたいて念仏をリードしてきたといいます。
下部の縁に3本の足をはさんで次の銘があります。
「為花岳清運信女菩提」「貞享三丙寅年」「九月朔日浄入庵」貞享三年(1686)。
本尊十一面観音に対する江戸時代初期の信仰のあり方やその深さをうかがわせるものとして、興味深いものです。

平成元年2月27日指定 伊豆市本柿木331法泉寺:本柿木区

応永二十五年銘懸仏

中央に仏像が刻まれ、赤いひもがついた懸仏の写真

この懸仏は作者は不明ですが、応永25年(1418)11月銘と祈願文が刻まれています。
径203ミリメートル、膝張55ミリメートル、像高30ミリメートル、台厚5ミリメートルの銅製円形懸仏で、当時のことがわかる貴重な応永銘懸仏です。

平成6年9月21日指定 伊豆市瓜生野 個人所有

柏久保区の祭祀用太鼓

太鼓の中央に蛇のようなものが描かれた祭祀用太鼓の写真

品質形状 太鼓の台および枠は木製、表面は漆塗り

  • 法量 太鼓の直径41センチメートル
  • 重量 7.0キログラム
  • 高さ 111センチメートル
  • 台の巾 45センチメートル
  • 作者・時代は不明

一之宮神社の春季大祭(1月15日)秋季大祭(10月20日)の式典において、雅楽演奏で献饌(けんせん)(神前に食物を供えること)の際に横笛、笙(しょう)とともに使用しました。制作年代は定かではありませんが、明治初期と推定されます。ただし、数箇所に修理跡は認められます。

昭和41年に台風で同神社の舞殿が崩壊した後は使用されていません。

平成11年6月15日指定 伊豆市柏久保325:柏久保区

修善寺紙および紙漉き用具

スとケタの写真

修善寺紙は楮(こうぞ)・三椏(みつまた)・雁皮(かりぴ)を原料としたスダレ目のある薄紅色の上品な和紙で、明治時代まで生産されていました。

起源は明確ではありませんが、平家物語に「白薄様、こぜむじの…」と出ているのが、修善寺紙のことではないかという説もありますが、現在見つかっている最古の資料では、室町時代中期の文安元年(1444)に出版された『下学集』に「修禅紙、坂東豆州の紙の名也、色薄紅也」とあります。この本は当時の百科事典のようなものですから、掲載されるということは、この時代以前には、すでに広く知れ渡っていたことが窺えます。

江戸時代になると、幕府は公方紙((くぼうし)御用紙)として盛んに修善寺紙を用い、家康は慶長年(1598)三須文左衛門に「壷形黒印状」を与えるなどして修善寺紙を奨励しました。現在では「修善寺紙を再現する会」がその復活に努力しています。

平成15年10月8日指定 伊豆市修善寺

立野紙と紙漉き用具

半分に蓋がついており、その蓋の中央に短い筒がついている桶の写真

立野紙は立野半紙と呼ばれ、実用的な和紙として、昭和30年前半まで生産されていました。修善寺和紙と同様に、残された資料はたいへん少なく、貴重です。また、立野紙を使用した浄瑠璃本、出荷時に生産者が使用していた印、手を温めるための桶など、立野紙の歴史を残す重要なものです。

平成16年3月23日指定 伊豆市本立野282:個人所有

この記事に関するお問い合わせ先

社会教育課 生涯学習スタッフ
伊豆市八幡500-1
電話:0558-83-5476 ファックス:0558-83-5480
お問い合わせフォーム

みなさまのご意見をお聞かせください
このページの内容は分かりやすかったですか
このページは見つけやすかったですか