市指定-民俗文化財2

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更新日:2023年03月01日

三番叟5件、神楽2件、車切2件、祭り1件が指定されています。

城山神社の三番叟

紅白の幕がかかった舞台上で着物を着た男性達が並んで堤太鼓を叩いていて、中央に白い衣装の男性が立っている写真

千代の出

本立野城山神社の祭典は11月3日文化の日に行われ、必ず三番叟が青年によって奉納されています。翁の荘重、千代の可憐、黒尉の躍動的な鈴の舞など古い文化の伝統が見事に引き継がれています。翁の衣装には「文化2年(1805)求之世話人、山本、武井、鈴木、野田」と記されています。
昭和62年9月25日指定 伊豆市本立野896
本立野区保存会

一之宮神社の三番叟

仮面をつけ着物を着た男性が舞台上で扇子を持ちながら両足を広げ立っている写真

翁と黒丈のかけあい

柏久保一之宮神社に伝承されている三番叟は、明治以前から毎年一之宮神社春の祭典(1月15日)に、郷土の平和と豊作、子孫繁栄の願いを込めて奉納されてきました。
その後昭和41年に台風で庁屋が全壊し、翌年から三番叟の奉納は中止となりました。昭和61年に新庁屋の建設が契機となり、三番叟保存会が設立され、再び柏久保の郷土芸能が復活しました。復活後は毎年11月3日の秋の大祭に奉納しています。
平成2年1月10日指定 伊豆市柏久保325
一之宮神社三番叟保存会

式三番叟(菅引水神社)

仮面をつけ金色の着物を着た男性が扇子を持ちながら踊っていて、周りを紺色の着物を着た祭囃子の男性達が囲んでいる写真

菅引、三番叟

能楽における翁舞のひとつで、への字形の目をした笑顔の面で舞います。面は五穀豊穣や長命の神と考えられ、毎年10月下旬の秋祭りに奉納されています。
菅引と中原戸は明治以前には神社を共有し、三番叟は神楽、鳥刺しとともに秋祭りに奉納されていました。明治初期に神社が二分され、奉納される芸能も現在のように分けられました。
水争いが原因で分裂したとの説もありますが、明治政府の一村一社政策によるものと考えたほうが妥当のようです。
平成6年11月6日指定 伊豆市菅引

神楽と鳥刺し踊り(中原戸水神社)

顔を白く塗って手ぬぐいを頭にまいた男性が紅白の杖のようなものを持って立っている鳥刺しの写真

中原戸、鳥刺し

「鳥刺し」は200年前から神楽とともに中原戸区に伝わる民俗芸能のひとつです。「曽我物語」を狂言風にしたもので、ユーモラスな台詞と軽快なテンポの祭囃子が楽しく演じられます。
平成6年11月6日指定 伊豆市中原戸

赤い獅子舞のお面をつけた男性が中央で踊っている写真

車切り

紅白の幕がかかった舞台上で緑の法被を着た男性達が和太鼓や笛などを演奏している写真

車切りは戦国時代、武士が陣中で士気を鼓舞するために行ったのが起源だといいます。
毎年10月中旬の祭典時に奉納されます。
平成7年9月28日指定 伊豆市原保

土肥神社「さつまころがし」

畳の部屋に紺色の法被を着た男性達がぎっしりと座っている写真

さつまころがし

土肥神社に伝承されている「さつまころがし」は、古謡「神代節」とも呼ばれ、江戸時代から毎年秋の例大祭と節分祭の直会の席で謡われてきました。
独特な節まわしが特徴のこの唄は、江戸時代に神社の石垣を築いた薩摩藩の石工達の仕事唄として伝承されたといわれ、土肥神社の氏子および各地区から選抜された「土肥神社さつまころがし保存会」により継承されています。
当時の住民と薩摩藩の石工達の交流を物語る貴重な郷土芸能です。
平成23年9月29日指定 伊豆市土肥729
土肥神社さつまころがし保存会

天城神社明和の絵馬

木の札に白い馬と着物を着た男性の絵が描かれている絵馬の写真

天城神社の絵馬

杉板を3枚張り合わせた大型の絵馬で「奉納御宝前 明和二年(1765)三月吉辰 河内氏□□ 印」の文字が記されています。明和時代湯ヶ島村は、紀州尾鷲から炭焼き市兵衛を招き、木炭製法を学んだ為、江戸城の御用炭となったり、椎茸やわさびなどの産物を通じて江戸との交流が頻繁になった時代です。この神社に残る数多い絵馬の中に、江戸の商人が奉納したものが見られます。また、井上靖の自伝的小説「しろばんば」の中でも天城神社は一つの舞台として語られています。
平成元年2月27日指定
伊豆市湯ヶ島305天城神社:宿区

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社会教育課 生涯学習スタッフ
伊豆市八幡500-1
電話:0558-83-5476 ファックス:0558-83-5480
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