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カラー写真の生みの親 長口宮吉伝

思い出の風景を、この目で見たままの色で写真に残すことができたら…。

1839年に銀板写真が誕生して以来、多くの人々が夢みた色彩豊かなカラー写真。

そんな夢を現実のものとさせたのが伊豆市出身の長口宮吉です。

難関を突破し薬剤師に

長口宮吉(1892~1962)長口宮吉(1892~1962)

 長口宮吉は明治25年4月22日、静岡県土肥町(現伊豆市)小下田の鈴木庄太郎の次男として生まれました。
 小下田小学校卒業後、上京し、大正3年東京薬学校(現東京薬大)を優秀な成績で卒業しました。
 大正4年には、薬剤師国家試験を受験。薬剤師になるためには並々ならぬ努力が必要でしたが、宮吉は見事合格しました。
 薬剤師となった宮吉は、蒲田の薬局に勤め、その間、写真の研究に取り組みました。

東京美術学校へ

長口宮吉の作品長口宮吉の作品

 研究成果が認められ、宮吉は、東京美術学校の助手となり、大正8年に助教授となりました。
 同15年には、東京高等工芸学校助教授に、昭和12年に教授に昇進しました。その間、写真科学及び写真技術に関する研鑽を重ね、幾多の俊英を世に輩出しました。

 

現代カラー写真の礎となる技術を発明

 当時の天然色写真は、普通の紙の上に印刷のように転写されて作られていたので、細かな色彩の表現が、し難いものでした。
 そんな時代だった昭和8年、宮吉は、写真印画紙に直接に複雑な色彩を焼き付ける技術を完成させました。
 この方式は長口式天然色写真として特許となり、現代カラー写真の隆盛の礎となりました。
 

大変な勉強家であった宮吉

長口宮吉の著書の数々長口宮吉の著書の数々

 宮吉は大変な勉強家で、雑談中でも本を2、3行でも読み、汽車の中ではたいてい読書をしていたといいます。
 東京高等工芸学校長口研究室の隣にいた馬場教授は、「黄がでない、青がでない」と真剣にとりくんでいた宮吉の様子が目に浮かぶと漏らし、「学校にいるときは研究一筋で本を読んでいるのを見たことがなかったが、よくもあれだけの本を書かれたものだ。」と感心しています。
 後世の人が写真の技術を身につけるには、誰もがその初歩から入門する訳ですので、これらの著書や文献資料がどれだけ多くの人々のため役立っているか、はかり知れません。
 

日本初のカラー写真制作会社を創設

長口宮吉の作品(最福寺資料館 所蔵)長口宮吉の作品(最福寺資料館 所蔵)

 昭和14年、富士写真フィルム研究所に入社し国産カラー写真の完成に尽力しました。
 終戦後は、日本初のカラー写真製作会社(富士天然色写真株式会社)を創設し、社長として鋭意率先して経営指導に当たりました。カラー写真用薬剤の開発、カラー写真技術者の養成、カラー写真に関する著作といった絢爛華麗なカラー写真技術の開発普及に数多くの業績を残しました。
 

富士山の見えるふるさとへ

長口宮吉の作品長口宮吉の作品

 昭和36年3月、すべての役職を離れた宮吉は、「富士山を見ながら新鮮な魚を食べて静養したい」と、ふるさとの小下田下村に新居を建て居住しましたが、昭和37年2月4日に、自宅の風呂場で倒れ、4月10日、東京日赤病院にて、69年の生涯を終えました。
 

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