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伊豆石と石丁場跡

伊豆石の種類とその用途

        
 伊豆半島及びその周辺では、古くから伊豆石の加工が行われており、現在、伊豆市内でも多くの石材加工所を見ることができます。
 
 石丁場跡とは、石を山などから切り出した跡のことです。伊豆は石の質が良く、石切は重要な産業の一つとなっていました。
 
 伊豆石には二つの種類があります。一つは安山岩系(硬質)で、もう一つが凝灰岩系(軟質)です。安山岩系の伊豆石は真鶴石・小松石・根府川石などとも呼ばれ、耐火性に優れ、風化しにくいという特徴が挙げられます。凝灰岩系の伊豆石は伊豆御影石・伊豆青石・沢田石などと呼ばれ、こちらも耐火性に優れ、軟らかいため加工がし易く、比較的軽いという特徴がありますが、風化しやすいという欠点も挙げられます。他にも柱状節理でできた六方石(安山岩)と呼ばれる石も採石されています。
 
 伊豆石は、地元では修善寺ハリストス正教会顕栄聖堂の基礎、旧天城トンネルのアーチや側壁部分、伊豆の国市(旧韮山町)にある反射炉の炉体外部で見られ、遠方では江戸城等の修築、品川御台場の建設など、大型施設の建築に利用されました。また、神社の石段や路傍の石仏・石碑、庶民の蔵や塀、家の改築といった日常生活にも必要不可欠でした。

伊豆石の歴史

    
 伊豆の石が使われた例として、静岡市葵区宮ヶ崎の賤機山(しずはたやま)古墳の石棺が挙げられます。この古墳は6世紀(古墳時代後半)のものと推定され、石棺は伊豆で産出された凝灰岩が使われていると言われ、その頃から伊豆では凝灰岩が切り出され、更に駿河湾を横断して、この地方まで海路や陸路などで運ばれたことになります。
 
 7世紀後半になると、沼津市周辺や伊豆の国市などこの地方にも仏教が伝えられ、伊豆石製の石棺の他に蔵骨器(石櫃)も見られるようになり、伊豆の国市には約1200年前の石櫃があります。これは昭和53年(1978)に北江間横穴群の大北横穴24号から発掘され、平成5年(1993)には、国の重要文化財として指定を受けており、石櫃側面には被葬者と思われる「若舎人(わかとねり)」と呼ばれる人物を示す文字が刻まれています。「舎人」とは当時の地方の有力者から選ばれ、天皇・皇太子の側近に仕えた身分で、「若舎人」は皇太子・皇子宮に仕えた身分と言われています。

石の切り出し方法

    
 石の切り出し方法は「平場掘り」と「垣根掘り」の2つに大別できます。「平場掘り」は下に掘り下げる掘り方です。手掘り時代では、平場掘りの跡には横線(水平)方向の切り跡が残っています。
 
 「垣根掘り」は横に掘っていく掘り方です。手掘り時代では、垣根掘りの跡には縦線(垂直)方向の切り跡が残っています。「平場掘り」よりも効率が悪く、工賃は約3倍かかったといいます。

石丁場跡の分布

  土肥屋形の石切丁場跡  土肥屋形の石切丁場跡

    石丁場跡は神奈川県の真鶴や根府川、静岡県の熱海、宇佐美、伊東、川奈、稲取、河津、下田などの伊豆半島東海岸から南伊豆、松崎、西伊豆、静浦や徳倉に至るまでほとんどの海岸線で見ることができます。海岸線に石丁場跡が多いのは、切り出した石をそのまま船で運びやすいからです。他にも狩野川などの河川沿いもポイントの一つです。
 
 江戸城改築の際、東海岸の各浦を中心に、普請を命ぜられた大名は、それぞれの石丁場を設けていました。黒田長政もその一人で、江戸での工作の手間を省くために、石材の寸法、数量を詳細に示した注文書を現場に送り、また割石の場合には割り方の見本を送って注文通りの石を作らせるよう、細かい配慮をしていました。伊豆市の隣の伊東市などでは、大名が設けた石丁場の証拠として石に印がしてあり、今でも残っています。
 
 切り出しを行っていた時代や使用された場所などは不明ですが、現在伊豆市内では、紙谷地区(修善寺)と土肥で石丁場跡を確認しています。
 

 

 紙谷石切丁場跡(坑内から) 紙谷石切丁場跡(坑内から)

  紙谷石切丁場跡(南から)  紙谷石切丁場跡(南から)

 紙谷石切丁場跡(南東から) 紙谷石切丁場跡(南東から)

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